郷倉(ごうぐら)とは

郷倉の歴史

和 暦 西 暦 事  項
縄文時代 前1000頃 縄文土器出土。 
弥生時代 0~300頃 水田ができ、稲作が始まる。 
古墳時代 300~600頃 瀬名山古墳群から金属太刀出土。 
長享 元年 1487 今川陸奥守一秀、瀬名氏となる。 
寛永 十年 1633

瀬名村(村高1.337石)

瀬名川村(村高617石の内、262石)は、大久保玄蕃の知行地。 

天保 四年 1833 瀬名郷倉が建て替えられる。 
天保 十二年 1841 番屋、木造平屋瓦葺再建される。 
弘化 二年 1845 番屋、建て替えられる。 
安政 元年 1854 安政東海地震で郷倉、被害を受ける。 
明治 二二年 1889 庵原郡西奈村となる。(瀬名村、瀬名川村、長尾村、平山村) 
昭和 五年 1930 瀬名地区耕地整理完了。 
昭和 十五年 1940   郷倉と番屋、現在地に移転された。 
昭和十八年~終戦 1943~1945 太平洋戦争中、軍の食糧や供出米の保管庫として利用された。 
昭和 二三年 1948 西奈村、静岡市と合併。 
昭和 四七年 1972 郷倉、静岡市文化財に指定される。 
昭和 五七年 1982 郷倉改修工事落成。 

昭和15年に移転前の郷倉

瀬名村の郷倉(ごうぐら)

 江戸時代公納米の保管倉庫として建てられ、明治以後いれこく米倉庫としてあり、管理米倉庫として使われ、現在地へ、昭和15年(1940)倉番小屋と共に移築された。

 

中川雄太郎(著)『村の暮らし ―眼で見る昔の生活―』 昭和47年9月20日発行 水韻社

「図版解説4ページ 86-48」より転載

 

昭和15年以前の郷倉
昭和15年以前の郷倉


郷倉の門

 この門を入って正面が倉左側広場を控えて会所(町村制施行以前の役場)があり向い側に倉番小屋、便所などがあった。

 

中川雄太郎(著)『村の暮らし ―眼で見る昔の生活―』 昭和47年9月20日発行 水韻社

「図版解説4ページ 87-48」より転載

昭和15年以前の郷倉の門
昭和15年以前の郷倉の門


中川雄太郎氏の著書

 現在では入手困難となっております中川雄太郎氏の著書は、郷倉に展示してあります。

 村の暮らしや、民具の名称・使い方などを知る、たいへん貴重な資料です。

 『村の暮らし』の帯文、「毎日の生活を豊かにするために 残された民具を通して 古人の心とその生活の知恵を知ろう」は、当会発行の「ごうぐら瓦版」のメッセージに使わせていただいております。

中川雄太郎(著)『村の暮らし』1972年刊
中川雄太郎(著)『村の暮らし』1972年刊
中川雄太郎(著)『村の民俗』1969年刊
中川雄太郎(著)『村の民俗』1969年刊


昭和15年以後の郷倉と瀬名公民館

郷倉と瀬名公民館
郷倉と瀬名公民館

 昭和15年に現在地に移転されてから、昭和48年、西奈学区連合町内会の公民館が建設されるまでの郷倉(左)と「瀬名公民館」。

「瀬名公民館建設について」 建設委員長の市川茂作氏の覚え書き
「瀬名公民館建設について」 建設委員長の市川茂作氏の覚え書き

 当時のことを知る方々もたいへん少なりました。当会前会長の市川氏より許可をいただき、当時を知る一助として、郷倉の歴史の部分を転載します。

 

 さて公民館の歴史を振りかえってみましょう。元公民館の敷地は柴田クリーニング店から南の土地が郷倉として、土蔵、馬小屋、会議室、消防組の火の見櫓、器具置場等あったが、郷倉を修理する度毎に町内に不幸(火災)があった。何かこの土地には因縁があるのではと移転の話が出て、元中川雄太郎先生の生い立ちの地である現在地の提供を得て移転し、清水警察署の道場の払い下げを受けて大会議室とし、小会議室を新築しました。