このページは、2002年(平成14年)11月3日に開催された郷倉見学会(9:30~15:00)、午前の講演会の中で配布された資料をもとに作成しました。

講演タイトル 『古文書から見た郷倉』

講師・資料作成 石脇 孝三さん(竜南文化振興会会長・郷倉保存会顧問 2018年没)


古文書や絵地図などから見た瀬名の郷倉

 瀬名村の郷倉についての古文書や資料は、あまり多くは見当たらない。2002年11月1日現在、静岡古文書研究会の調査結果は、以下の12の事項である。(画像はすべてクリックすると拡大します。)

 

1.五人組連判帳

明和七年(1770)五人組帳(12条・13条)【安政五午年写之・瀬名村 中川雄右衛門】
条項の中に郷倉と番屋に関する事項有り。参照『瀬名村の五人組帳』静岡古文書研究会

五人組連判帳
五人組連判帳
五人組連判帳読み下し
五人組連判帳読み下し

2.天保四巳年八月(1833)建替・棟札(表)

※今日まで郷倉の棟札としているが、表には郷倉とも番屋とも記されていない。

「天保四巳年八月建替」棟札・表
「天保四巳年八月建替」棟札・表

※「天保四巳年八月建替」この棟札は、今日まで郷倉を建替した時の棟札として扱われているが、裏面に「天保十二丑年正月會所振替建直ス」と書かれている事などから考えあわせると、いろいろの疑問が生じる。

  1. 現存している郷倉ほどの大きな建物を建てた時の棟札にしては、小さすぎる。
  2. 郷倉の棟札をわざわざ下ろしてきて「會所振替建直ス」などと記すのは不自然。
  3. 天保四年(1833)に建てたにしては梁・柱など、使われている建築材が新らしすぎる。
    (久能大村家に明治十年代に建てた倉が現存しているが、それよりは少し古いような気がする)
  4. 江戸時代、瀬名村庄屋を代々勤めた中川文書
    №Ⅰ・111 慶應三卯年十月 日
    「當村郷御蔵普請取掛リ去九月廿一日吉辰に付棟上仕候・・・云々」とある。
    №Ⅰ・125 慶應三卯年十一月
            瀬名村 庄屋 雄右衛門
    「當村郷御蔵御普請之義先般宮中御役所江御届ケ奉申上候處去ル九月廿一日上棟之節御届ケ不仕棟祝ひ仕り候處・・・云々」とある。

3.天保十二丑年(1841)正月會所振替建直ス 棟札(裏)

  この事から(表)の天保四巳年八月建替とあるのは、会議所の建替えとみるのが妥当と思われる。

「天保十二丑年正月會所振替建直ス」棟札の裏
「天保十二丑年正月會所振替建直ス」棟札の裏

4.弘化二巳年(1845)八月吉日蔵番家建替 棟札(表)

弘化二巳年(1845)八月吉日蔵番家建替 棟札(表)
弘化二巳年(1845)八月吉日蔵番家建替 棟札(表)

5.弘化二巳年(1845)十二月會所井戸掘 棟札(裏)

弘化二巳年(1845)十二月會所井戸掘 棟札(裏)
弘化二巳年(1845)十二月會所井戸掘 棟札(裏)

6.嘉永七寅年(1854)十二月六日『大地震ニ付諸調書上帳』御知行所・瀬名村

◎嘉永七寅年となっているが、嘉永七年十一月二十七日改元

※家作潰二軒・大破損十七軒・郷御蔵大破・弁財尊天ほか堤防・堤などの被害甚大

この他、大統領神社も大破し建て替えの木札がある。被害は瀬名村の戸数の約一割が大被害をうけている。安政元年(1854)の瀬名村の戸数は187戸・人口1106人(男563・女543)。平成12年、戸数は7687戸、人口20950人。余談ながら、瀬名川では世尊寺をはじめ被害甚大との事。

7.万延元年瀬名村絵地図(1860)登呂博物館所蔵

万延元年瀬名村絵地図(1860)登呂博物館所蔵 模写(石脇孝三)
万延元年瀬名村絵地図(1860)登呂博物館所蔵 模写(石脇孝三)

8.瀬名の古文書(№111)

  當村郷蔵普請取掛リ去九月二十一日吉辰ニ付棟上仕候云々。

9.瀬名の古文書(№125)

當村郷蔵普請之儀先般宮中御役所江御届け奉申上候処去る九月二十一日上棟の節…云々。慶應三年(1867)十一月瀬名村庄屋雄右衛門

10.瀬名村地籍図

推定年代 江戸時代末期~明治六年(1873)地租改正の頃。

11.明治五申年(1872)五人組帳(33条)

12.昭和十五年(1935)一月二十日 南約150m移築時棟札 区長・山田源左衛門

瀬名の郷倉の棟札 上棟 昭和十五年一月二十日
瀬名の郷倉の棟札 上棟 昭和十五年一月二十日

瀬名の郷倉の棟札 平成14年(2002)10月1日 静岡・竜南文化研究会調査

丈 10cm

幅 上 33cm/下 31cm

厚 1.3cm

 

 この棟札には、「郷倉・蔵倉・御郷倉」といった名前は記されていないが、昭和15年1月20日、当時の瀬名区長・山田源左衛門氏等により、現在地に移築したときのものである。

 郷倉は現在地に移築される前には、約100mくらい南にあった(闇小路の南側)。

 萬延元年(1860)の瀬名村絵地図(登呂博物館蔵)、江戸時代後期の地籍図(瀬名部農会文書には、『一七五〇番・上畑壱反壱畝廿七歩』(357坪)とある。

 郷倉は、太平洋戦争たけなわの頃には一時、供出米倉庫・軍需物資(米・塩・砂糖・缶詰…)の保管に使用された。当時、瀬名には静岡連隊・長田大隊のほかに輜重隊の一部が駐屯(西奈小学校・光鏡院)、私(石脇)の家は大隊の炊事場で十数人の兵隊がいた。

 (屋敷の南東に共同の砂糖を作る所があり、大きな鍋(直径1メートルくらい)が三つあった。ここで大隊の炊事をした。〈高村上等兵、堀田万年一等兵たちが巾を利かせていたことを思い浮かべる〉

 上記の事もあって郷倉の棟札は中川雄太郎氏(当時区長)が保管、その後私(石脇孝三)が保管していたが、郷倉が整備され、郷倉保存会も結成され、民具等が保存・管理されるようになってから、郷倉に保存されるようになった(平成6~7年頃か?)。